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思考の曖昧さを明け渡してみる

思考の曖昧さを明け渡してみる

2018年4月8日
こんにちは。

さてさて今日は「思考の曖昧さを明け渡してみる」ことについて書いてみようと思います。

ここで、ちょっとワークっぽい質問です。
「あなたが今思いついた、ある人について、どんな人だか教えてください。」


「ある人」というのは、友人、隣人、家族(子供、父、母、夫、妻、おじさん、おばさん、甥、姪など)や会社の同僚などどんな人でも構いません。
パッと思いついた人です。

その人柄を表す言葉は、どんな言葉でしょうか?
何個くらいありますか? どの分野においての話でしょうか? 別の視点ではどうでしょうか?

・・thinking Time・・
〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜

その言葉が、全てが褒め言葉であっても、中傷混じりであっても、私たちは、その人のことを、「今の自分が理解できる範囲での理解」をして「今の自分で理解できる範囲での評価」をしているだけでしかなかったということを思い出してください。
そうすると、「ある人」のことを理解し評価しているのは、「今の自分」の範囲内だということが良くわかります。

その人の「真の姿」については「何もわからない」のですから。

真の姿を見たいと思うとき、2つの思考体系のどちらかを選ぶことになります。
「神の思考体系」と「自我の意思考体系」
ここで、よく言われているのが「どちらかでしかない」ということです。

神の思考7:自我の思考3
神の思考9:自我の思考1

ということはできません。
もし、上の比率であるならば、それは「自我の思考10」と同じです。

白か黒か。ここにおいてグレーは黒と同じなのです。

真の姿を見るときは「神の思考10」を選ぶ目的(意思決定)がなければ、思考も「機能(はたらき)」が果たせません。


ここで、一言添えておきますね。
もし、冒頭のワークで、「ある人」を「白だけどグレーな感じ」という評価をしていたということから「また、聖霊や神の愛を選べていなかった」と自分を責める必要はありませんよ。
ただ、気付いた時に「ほんとうの事が見たい」「正しく見たい」と明け渡すだけで良いのですから。


明け渡す・手放す・サレンダーとは、聖霊へと祈りを捧げることですが一大決心、清水の舞台から飛び降りる勇気のような勢いは必要ありません。その代わり「ささやかな意欲」でしたね。

ここで、ささやかな意欲は「純粋なもの」であることと、サレンダーは「完璧に」ということが大切なポイントになります。ですから「〇〇になってほしい。」「思った通りに見せてください」と言う願いや望みは、ほんとうの祈りでもサレンダーでもないということを留め置いて実践していきます。

とはいっても、完璧なサレンダーをしたいと思っても、私たちは時々「自分の正しさ」と戦ってしまうことがあります。
ありませんか?わたしは、時々あります。
それは、自分の正しさを手放すことが「相手を正しい」として「正しいか、間違いか」を自分と相手の間に見てしまうからだと知りました。
でも、「訂正・赦し」によって見せてもらえる「正しさ」は「自分の考え」でも、「相手の考え」でもありません。そんな「意地」の綱引きをしているところとは全く関係ありませんし、実は、エゴは強敵・・でも、ないからです。

エゴは強敵ではない? では、エゴは弱いのでしょうか?
答えは「NO」です。

「現実に起こった」とリアルに感じた瞬間から、この「正しいか、間違いか」という葛藤が始まっていますが、その時すでに「自我の目的」を選んでいた・・もしくは、間違っていた。わけですから、立ち止まり「別の理解があるかもしれない。」「目的を選び直して見直す」といったことを思い出した瞬間に、それは「幻想・夢・自分が見たいように見ていた世界」だと気づき、一歩下がって見ることができるのではないでしょうか。

そうすると戦う必要はありませんよね。

安心して受け入れる事も難しくありませんし、「サレンダー・手放す・明け渡す」ことに「意地」を持つ必要もありません。
戦っている相手は・・・・「いない」のですから・笑

と言いつつも、なかなか明け渡すことが出来ないこともあるかもしれません。
そんな時は、「幻想なのに」とか「持っていてはダメ」と自分を責めるのではなく「持っていたいんだな」と受け入れてみてはいかがでしょうか。
幻想とはいっても、そう思い込んで生きてきた「自我のアイデンティティ」にとって、たやすく手放す事ができないことだって、一つや二つ・・・どころか、たくさんあっても不思議なことではありませんし、わたし自身もあります。

わたし自身、今は、それを「いずれは明け渡す」と知っていながらも、まだ「持っていたい」と自覚している状態です。だからそれでいい、というわけではありませんが、まず「自覚」しているというところまで来たなら「ひとまず、よし」ではないでしょうか。
奇跡は、私たちがするのではなく、私たちは「気づき、明け渡す」までが、いわゆる「仕事」です。「自覚」しているということは、その仕事の半分以上を果たしていると思います。残りの「仕事」を終えるのも期限があるわけでもないのでマイペースでいいわけです。ならば、怖くないように、安心しながら終えていけば良いのではないでしょうか。なぜなら、聖霊は、私たちのタイミングを急かすことなく待っていてくれているのですから。
「出来ない」「ダメだ」「早くしなくちゃ」という、これも、私たちの自我の得意分野でしたね。笑

自分自身に優しくいきましょう。でも、ポイントはズラさないように。

きっと、あなたも、毎日「自覚」していることを思い出すと同時に「いつか、これは手放すのだろうか」と自問自答もしておられるはずです。するとある日、思いもよらないタイミングで、「あ、要らないものだった」と、パッと手放す事ができ、その後、聖霊が奇跡を見せてくれます。
そうなった時の奇跡は、感動的です。(これは折紙付!)
全てを包み込んで、グルンと別物にしてくれます。


そして、気づきます。

いつも神の愛の中だったって。
悪夢から目覚めた朝のように「あれは、なんだったのかな?」
自分で、自分の邪魔をしていただけだったのか・・と。笑

次の瞬間、視界が開けるかもしれませんし、思っても見ない展開に「えーえーえー」と変なリアクションをとる自分のユニークさに笑ってしまうかもしれませんが、それもコミコミで楽しみですね。


コースは心の訓練です。思い通りに夢の世界を操ることを学んでいるのではありません。
ここは注意したいところです。

どんな状況であっても、心が平穏であるために「自分では理解できない範囲」・・その範囲を超えた理解を経験する学習です。
そのために聖霊やイエスが助けてくれるわけですから^^
神が愛であるなら聖霊も愛の存在。

なんとも心強く、完璧な「自己」ですよね。

それを意志(目的と)するとともに、自分は「今の自分で理解できる範囲でしか理解していない」ということを自覚し、曖昧な思考の「正しさ」と戦わず、明け渡し、目的(意志)を明確にして過ごしていきたいと思います。


では、また〜 ◎^v^◎ ごきげんよう〜




「しかし、あなたは誤った連想を知覚できても、実在のものにすることはできない。
ただ自分自身に対してそうする事ができるのみである。
あなたは自分が作り出すものを信じる。
あなたが奇跡を差し出すなら、あなたは同じように強く奇跡を信じることになる。
そのとき、自分の核心の強さが、奇跡を受ける者の信念を支えるだろう。
実相が完全に満足のいくものであることが与え手と受け手の両方に明らかになるので、空想はまったく不要になる。」
(奇跡講座 T2-VIII-3:7-11

更新日: 2018-04-08