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違いは分離ではない。

違いは分離ではない。

2016年8月26日
いつもお読みくださるすべての友と、初めてお読みくださるあなたへ感謝と祝福を贈ります。


最近、また新たにというか、改めてというのか、よくわかりませんが・・
わかち合うということが大切で嬉しくて仕方ありません!
前回のコラムで、ACIMの実践は、時々とても面倒に感じることもある。
でも、この面倒くさいと思っていたことが嬉しくて楽しいと書かせてもらっていました。
今回は、そのあたりから今の私が感じていることについて書かせていただきたいと思います。

やらなきゃ終わらないことはわかっているけど、どうも気が進まない状況だとか、誰かとの関係の中で、自分の思いがあれこれと感じたことなどどの状況も、その全てが、自分で自分を無意識に制限していることから解放される奇跡へと導かれていることが嬉しくて、ありがたいのです。


奇跡へ導かれるその種の思いを見つけると、「また出てきた」とか「わかってはいるんだけど・・」「あぁ、忍耐だな」とか・・どちらかと言えば、ちょっとうんざりしてしまう気持ちを感じながら奇跡の作業に取りかかることもあるのですが、ここ最近は、ただただ「また、解放されるんだ!」「また、可能性を知れる!」「また、自分を知れる!」と知覚が訂正される幸せを味わっています。

奇跡の全てが、肉体の目で確認できるかどうかはまた別ですが・・
無意味に自分を苦しめていた考えから、癒しを受けとることは、赦しを続けてきているミラクルワーカーのみなさまもご承知の、

それは必ず受け取ることができるもの。

ですよね。

というわけで・・
「いけるとこまで、導き連れて行ってもらいたい」という衝動が増しているのです。


自分と向き合うということは、ひとりで過ごすことだけではなく、いろんな人と関わりあっていくこともその一つです。
新しく自分の知らない人に会う、自分を知らない人たちと関わりあっていく、すると、見えていなかった自分の内側が見えてきますし、また気の合うお友達と過ごす時間も、その場を合わせて穏便に付き合うことではなく、自分の思いをモニターし、相手を信頼し、正直にコミュニケーションしていくことも、本当の自分を知る奇跡のチャンスを与えてもらえます。

ありのまま、そのままで役にたっていることを知ったり、できていないと思っていたことが、実は十分できていると知れたり、思いの揺れを感じて奇跡を待ちながら、自分の知らない自分を知り、無自覚に設けていた制限からも解放されます。これは本当に一人では気づけないことです。

人に会うのが苦手、話をするのは苦手という方でも、FacebookやTwitterなどのSNSを使って、コンタクトをとったり、ただ見ているだけ、聞いているだけでも、なにかしら感じることはあるのではないでしょうか?
それをジャッジで終わらせるのではなく、思いを感じ奇跡を祈り、受けとったであろう癒しを確認するならば、何かアクションを試してみるのも一つだと思います。

「わたしに何をさせてもらえるのだろう?」と、内なるガイドからのメッセージを待つ時間を心地よく過ごしたり、何かやってみたいと新しいアイデアが思い浮かんだら、もちろん内なるガイドとともに始めてみるのもいいかもしれません。

そうやって、今までの場所から一歩踏み出していくと、自分の内側にあるものがあぶり出されるように、また一つもう一つと自分の中に眠っていた可能性や迷い、ブロックも確認できます。それを認めるのは、やはり楽ではないですけど、屈辱や恥ずかしさ、怒り、妬み、悲しみ、切なさなどを感じます。
これこそ人には見せられない、涙なしでは味わいきれない時間を過ごす時もあるかもしれません。
その思いは、自分で自分の「本来の生き方」を制限しているものなので、そこには癒しが必ずあります。
怖いからと目を背けてしまうと「それがある」ということを認めてしまうことになります。
ですから、しっかり見ることがポイントです。
諦めずしっかり見なくてはいけない大切な大切な作業ですが、内なるガイドに導かれて進めていく作業です。怖いものに挑む勇気ではなく、内なるガイドを信頼するささやかな意欲さえ持てば、必ず癒しを受けとれるので、安心してください。


さてさて、自分の内側にあるものに出会う瞬間というのは、いろんなパターンでやってきますが、その一つに、人との違いを感じてびっくりすることもあります。今までそれが当たり前だと思っていたり、その方法しか知らなかったとか、または、よし!これでいこう!と、一歩を踏み出したとたん出鼻をくじかれるような思いを感じたり。そのタイミングは、まるで曲がり角で誰かとバッタリ!鉢合わせるように唐突にやってきます。

そこで、どっちが悪いとか、どっちが先だとか・・責任追及のジャッジをしながら、なんなのよまったく!と、離れてくこともあるかもしれません。また、鉢合わせしたことにびっくりしたけど、時には互いの損傷の確認もしつつ、時には何も(傷ついたり)なかったわよね。と、確かめて「私は、こっちに。」「あなたは、あっちに?」と、「では、気をつけてね。頑張ってね。またね。」と、手を振り別れることもできます。

もしかしたら、一緒に行きましょう。と、その道を行くかもしれないし、あるいは、それならこっちだよ。と、先を知っている友かもしれません。そして、もしかしたら、別の道と道をつなぐように、架け橋となってくれるような友かもしれないのです。

自分と他人の考え方や思いの違いの出会いは、「自分はこっちに行きたいんだった」「わたしが進むのはこっちだな」「あら。そんな道もあったの?」と知らされ見つめ直す機会にすぎません。
びっくりして駆け巡る思いを鎮めたら、改めて内なるガイドとともに確認していけば、安堵感を思い出すために親切な兄弟との出会いがあっただけだったと感謝を思い出せるのではないでしょうか。

自分の進みたい道が、誰かと違うことは分離ではありません。
そこには正しさも間違いもないからです。もし、そこに自分の正しさを信じようと戦うなら、それが自分自身との分離であり、本当は一度も離れたことなどない神との分離を信じていることになります。

誰とどんなことを、どのタイミングで・・分かち合い、確認するのか、親切な友(兄弟)との遭遇も、内なるガイドに任せていれば、自分の正しさを守るために戦う必要もありませんよね。

自分の気持ちを新たにして進んでいくと、都合のいいhappyだけが続くわけでもなく、それはまた次なる問題のように感じることも起こってきます。そういった出来事に意味をつけるのではなく、そこから癒されることを信頼することを思い出すだけです。内なるガイドはいつも導いてくれます。

こんなに気楽なことはありません。
どの瞬間も繊細に感じ優美なものへと癒されていく、その柔和さも教えてもらえます。

いつもの景色に見える、そこもまた、新しい場所となり、新しい事、新しい人に出会い、新しい自分がはじまります。
もしかしたら、大変な事も、不安なことを感じるかもしれません。
でもあの時「じゃあまたね。」と手を振って別の道を進んでいったあの友も、きっとそうして頑張っているでしょう。今日出会う、新しい友もそうしてきた同志の一人。考え方が、まったく同じ人というのはきっと探す方が難しいですよね。違うけど同じところでつながっている。

それを感じながら今日も感謝と祝福を贈りたいと思います。この思いは、与えたところで受けとられる。
わたしたちの真のひとつの心だからです。

どんなにささやかに贈っていても、その思いは届いています。

「あなたが思うことのすべてはその自己の想念であり、
神聖な神の想念をその自己と共有している。
神から与えられた機能(はたらき)を忘れていたときには自分に拒でいた感謝を、
今、受けるに値する者となりなさい。
しかし、神があなたへの感謝を一度でも止めたことがあると思ってはならない。」
(奇跡講座 W-pt1  L197-9:6〜8)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感謝と祝福を贈ります。

廣田さな

更新日: 2016-08-26