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ACIMを学ぶって?

ACIMを学ぶって?

2016年7月17日
ACIMを学ぶとは、テキスト・ワークブック・マニュアルの3つのカリキュラムを読むこと?

この3つのカリキュラムを読んでこそ「学習者です」という風な事を耳にしたり目にしたり・・
3つのカリキュラムを全て読めていなくても、
一つ一つ準備を整えながら学習されている方もいらっしゃいます。
どの時点を学習のスタートラインにするのかという考え方にもよりますが、今、その条件を満たしていないということであっても、今後もずーっと「そうでない」というわけではないでしょうから、曖昧で、誰にもわからないことではないでしょうか。
学習を続け、奇跡に意欲を差し出し続けていくうちに、3つのカリキュラムを読むことは学び続ける自然な流れですのでその辺は、気にすることがないのでは?と思うわけです。

今のわたしが感じることを、毎回コラムでまとめていますが、
今回も、私見たっぷりに綴らせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

曖昧で、誰にもわからないとはいえ、テキストだけというのは、読み進めるうちにある程度の学習や経験が伴わないと理解できないことが起こってきます。これはテキストにもそのようなことは書かれてあります。
ワークブックだけでも、理論的な理解が追いつかず、実践していく中でも感覚的になってしまい、結局、その経験を通して何層にも深まる理解が強化されにくいことがあるでしょう。今までの自分の知っている知識の中で・・という感じ。ですから、最低1年は「信じる、信じない」は関係なくとりあえずがんばって!ということです。
マニュアルを最初に読まれる方はそんなに多くないと思いますが、テキストで語られている理論やワークブックによるプラクティスに触れていない場合、勘違いしたまま解釈されることもあるかと思います。

やっぱり3つのカリキュラムは「必須」であるということです。
とはいえ、一度に進められる状況というのは難しいですよね。自由な時間に恵まれている人はごく稀で、大半の人は、日常の中で、しなくてはいけないことがあります。生活のための仕事や、家事、所属しているコミュニティーなどの、生活の軸となる優先事項から雑務まで・・こなさなければいけないことが「それほど」ではないにしても「まったくない」わけではありません。また、どっぷりカリキュラムに専念できる環境にある方は、とても恵まれているのかもしれませんが、だからと言ってナニカが早まるわけではありません。
理論的な理解と、何よりも実践によって体験されていくことなので、自学自習と言われているからと、家の中に閉じこもっていても、奇跡は経験できません。そういうところも、コースの面白いところですよね。
どのカリキュラムから読み始めるのかは「あなたの自由です」と言われていますし、
実際そうしかできません。必要なことは揃えられていますから、焦らずやっていきましょう。

しばらくは、どれか1つのカリキュラムだけで進めていき、そのうち「そういう流れ」で他の2つのカリキュラムも必要になってくるのが、3つのカリキュラムで構成されている「一つの学び」の形なのでしょう。
そもそも、日本では3冊に分かれて出版されているので、そこに順番を見たり、重要性のジャッジをしてしいますが、もともと、1冊のものなので、3つのカリキュラムで1つの教えなのですよね。
もし、1つのカリキュラムだけで「わかった。」と思ったとしたら「自分でなんとかしよう」という思考に無意識に流され、そのうちにコースに対する興味は薄れ、元の生活か、他の学び(道)へと・・・そうなっていくか、または、そういった学びが全く必要のないスピリチュアルそのものの存在のどちらかだと思います。
他の学びへ進まれることも、ACIMだけが、本当の自分・源(ソース)へ戻る唯一の学びではないですから、お引き留めはしません。ですが、他の学びとACIMを自己流にアレンジすることはどちらの学びにとっても歪曲に繋がりますし、広く浅くはかえって時間の無駄になりますので、ACIMに限らずどの学びでも、本気で自分と向き合う気持ちで学ぶのであれば、今までの自分の知識は、一度横に置いて、素直な思考で「何も知らない」ということをいちいち確認しながら一途に進んでいかれるのが一番近い道のりだと思います。

ミラクルワーカーの方は、他の方々がこのような学習者の定義を満たしているかどうかは気にされないと思いますが、もし、他のACIM学習者の方に対して気になるのであれば、それはもう「訂正〜奇跡〜」のチャンス到来、自分の内側のモニター開始です。
内なるガイドとともに心の場所を確認して「訂正」を受け入れる「ミラクルワーカー」であることを思い出してください。

わたしが思う学習者というのは、「癒されたい」「平安でいたい」「何を見逃しているのか知りたい」「どうやら間違った知覚らしい」「孤より個だった」と訂正を求める謙虚さと意欲を差し出している方ではないかと思います。そして、そのヒントが3つのカリキュラムには惜しみなく記されています。言葉は何の意味もありませんが、そこを目指している人が、学習者でありミラクルワーカーだと思います。

わたしがファシリテートさせていただいている、当サイト関西スタディグループに参加されるミラクルワーカーの皆さんも、人生のさまざまな経験を通して、コースに出会い、癒されたい。自分を知りたい。心の本当のパワーや場所を思い出すために、それぞれにできることから進められています。
“ ワークが面白いけどテキストは興味がない ”とか、“ ワークブックもいいカリキュラムだと思うけど自分には必要とは思わない ”とか、“ 読むのは面倒なのでYouTubeで聞いてます ”という方など、それぞれのスタイルで「今の学び方」を進めておられる方にお会いすることがあります。
テクノロジーは本当に便利ですよね。本を開いて落ち着いて読む時間がない時の助けになりますし、耳で聞く方が、すっと沁み込んでくることもあります。いろんな方々を通して、アイデアをシェアしあい学び方の自由さを教えてもらっています。

どのようなスタイルであっても「今、自分が感じていること、生きていることを平和の中で感じたい」「自分自身を知りたい」という気持ちを持っておられます。
内なるガイドとのコミュニケーションも常に取られています。

わたし自身、ACIMを知る少し前まで、生まれてくることと死ぬこと以外は、自分でコントロールできると思い込んでましたし、コースを知った時も「あ、これはハマってる人がやるものだ。変に興味を示さない方が無難・・・」と、横目で見ている感じでした。まさか、その半年後には、「知りたい!やりたい!」と思いが溢れ「奇跡の道」のPDF(当時の日本語訳はそのPDFだけでした)を取寄せたり、後にスタディグループのファシリテーターになるなんて思ってもいませんでしたし、10年以上も続けたり、生き方になってしまうとは、本当に自分では思ってもみなかった予想外な展開です。(そうは言っても、シナリオは決まっているんだよ。と、ツッコミが聞こえてきそうですが・笑)
どの時点から、ミラクルワーカになったのか、生き方になったのかわかりませんが、そういうものなのでしょうね。

3つのカリキュラムを読んだとしても、自分の今までの考えとコースが述べていることをすり寄せたり、比較して評論したり、悟ることに焦るばかりで、内なる自分と向き合うことをしないでいる場合は、多分、そのミッションはなかなか進まないと思います。
なぜなら、ACIMは実践あるのみ!だからです。
しかも、生活のさまざまなシーンの中で、隙間なく、活用できて、道具や儀式もないのでこっそりできる、とってもとってもお手軽で実用的なレッスンです。時々、ものすんごく面倒なレッスンに思える時もありますが、目的が決まっていれば大丈夫です。


実は、最近、この面倒くさいと思っていたことが嬉しくて楽しいのです。
その話は、またの機会に・・

ACIM学習者とは、いったい、どのような人のことなのでしょうか・・?

今日も、holyとともに・・・
目的を見失わないように過ごしましょう〜。

『私は、真に助けとなるためにだけここに居る。
私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。
何を語り、何を為すべきかを、案ずる必要はない。
私を遣わした聖霊が私を導くからである。
聖霊が私とともに行くと知っているので、
私はどこであろうと聖霊が望むところにいることに満足する。
聖霊に癒すことを教えてもらうなら、私は癒されるだろう。』
(奇跡講座 T2-V-A-18:2~6)

お読みいただき、ありがとうございます。
廣田さな

更新日: 2016-07-17