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神の愛は本当に果てしない

神の愛は本当に果てしない

1999年11月30日
「神の子よ、あなたが罪を犯したのではない。しかし、大きな思い違いをしていた。だが、これは訂正することができる。あなたが神に対して罪を犯すことなどできないと知っている神が、あなたを助けてくれるだろう。あなたは神を否定したが、それはあなたが神を愛していたからである。もし神への愛を自覚すれば神を否定できなくなるということを、あなたは知っていた。したがって、あなたが神を否定したということは、あなたが神を愛しているということであり、また神はあなたを愛しているということもあなたは知っているということを意味する。あなたが否定するものは、かつて知っていたはずのものということを、覚えておきなさい。そして、否定したということを受け入れるなら、あなたはその取り消しをも受け入れることができる。」
(奇跡講座 T10-V-6 )


私たちは、日々、自分がしたこと、目にしたこと、耳にしたこと、言ったこと、言われたこと
全てのことに無意識に「正しいか、正しくないか」というようなジャッジメントをして、
自分は「間違った」か、それとも「間違ってなかった」かをジャッジメントして、葛藤して
罪深く思ったり、愛される存在からかけ離れた者になろうとして、独りぼっちだと思う事をしています。

この箇所では、そういった思い全てが「罪」ではなく「大きな思い違い」と言われています。
ただの勘違いなのですね。全てが勘違い。

そうは思えない心は、抵抗したくなりますが
そこに追い打ちをかけるように
「あなたは神を否定したが、それはあなたが神を愛していたからである。
もし神への愛を自覚すれば神を否定できなくなるということを、あなたは知っていた。」
と記されています。

私たちはどんなに神(神からの恩恵・愛・私たちが愛されているという真実)を否定しようが、
「私はダメな存在だ」と言い放っていても、愛されている事にかわりなく
それは、単に「認めてしまうと、駄々をこねられないからだよね」と、
大きな大きな愛で包まれていることを認めたくない心があるだけだった。
ということに気付かされます。

敵いませんね。まったく・・・
どこまで、アマノジャクなのでしょう。。

愛しているのに、愛していないふりをして・・
愛されているのに、愛されていないふりをして・・

どうしようもない恐怖や孤独で、涙が溢れていても
それは一人芝居だったと言われているような気がします。
(気がします。ではなく、そうなんです!)

恥ずかしいですね。。恥ずかしいから、もういっかい怒って反撃みたり。

それでも「いいんだよ」と、言ってくれています。
そして、その勘違いに対して「コレコレをして償いなさい」ということもありません。

「否定したということを受け入れるなら、あなたはその取り消しをも受け入れることができる。」
ただそれだけなんですね。

アトーメントですね。
果てしなく赦されていますね。
祝福されています。
なんの罪もありません。
なにも足す必要なく満たされています。
完璧なスピリット。

「私は間違っていました」「私は、違っているみたいです」と素直になることで
「償いましょう。」「何かを奉仕しましょう。」とかではなく

祝福される。完璧なスピリットだということを

思い出す。それを受け入れる(認める)ことができる。



・・・・・もう一度言っていいですか?

「敵いませんね〜」

徹底的に「罪はない」と赦されてます。愛されています。
この大きな無限の愛に、私たちは甘えて委ねるだけでよくて
そして、どんなにジャッジメントして葛藤して自分を責めていても
神の愛の中でそれをしているということをいちいち思い出して、安心していく。
私たちは、完璧なスピリットです。


先日、レッスン72「不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である」をして、テキストの第10章を読みたくなりました。
それは、あるフレーズを思い出したからで、それが第10章のどこかにあると思ったからでした。
結局そのフレーズは第10章には書かれていなかったのですが、この箇所への導きだったのかもしれません。

神の救済計画は想像をはるかに超えるスケールです。
そうだとわかっていながらも、密かに攻撃を止められない私たち。
だけども、その「愛」には敵わない。
そこに甘え委ねながら、安心して攻撃し、不安を感じていいんですね。

無駄な抵抗だとわかっていても、そうしたい時もありますもの〜
気づいてしまえば、
攻撃していた私はいつの間にか、心の平安、神の愛の静寂の中にいるわけですから

今日も赦された神の子として、聖霊とともに過ごしたいと思います。

更新日: 2015-09-11 08:09:16