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はじまりのメッセージ

はじまりのメッセージ

1999年11月30日
「受け取るやイミングはなくならない」からの続きのコラムです。


聖霊から、「大丈夫だからね。」と言われても、素直に受け止めることができないことってありませんか?
いったい何を見せてくれるのか・・
しかも、今の自分が快く思っていない状況に導かれるときって、かなり抵抗を感じますよね。

「死に至る病も含めてあらゆる形態の病は、目覚めることに対する恐れが肉体レベルで表現されたものである。」
と、テキストには書かれています。

病気とは、幻想である。とも言われています。
どんなに困難な病気も、風邪も、きずも、事故も、肉体レベルで表現されたエゴの幻想。
そして「病気」という言葉は、
「肉体がなんらかの原因だと思っていることでことで、病んでいる」ということだけではなく
「平和ではない(穏やかではない)心の状態そのもの」
というようなことを含めた言い方をしたテキスト箇所もありますよね。

本当の私は完全で完璧だということを、肉体としてではなくスピリットで感じる。
ただ目覚めるのが恐いだけ。
(そうか!わかったー!怖いだだけなんだ〜はいはい〜)と、
そんな素直には受け入れられない私は
幻想だと思っていても、
エゴの同盟は解消したはずなのに!
データでみた判断で予防のために薬なんて嫌だ。意味がない!
身体を良くするといいながら悪くなるのでは?
と、病気、肉体、薬に、リアルを与えている私もいました。
そして、自分はスピリットであると、聖霊にこの身を使っていただくと選び続けることの繰り返しです。
それでも、このステップの進行方向は変わらず、聖霊の意図がわからないままでした。

肉体を持って生きている私たちは、常に真実と幻想の境界線で生きています。
紙より薄い境界線の中で、常に選び直して生きているのです。
肉体を持つことが、悪いとか、そういう話ではありません。
肉体は、コニュニケーションの道具ですものね。

テキストから
「聖霊は肉体をコミュニケーションの手段としか解釈しないということを、思い出しなさい。神と神から分離した神の子らの間のコミニケーションの絆である聖霊は、あなたが作り出したものすべてを、絆としての聖霊自身の役割に照らして解釈する。自我は肉体を通して分離する。聖霊は肉体を通して他者に到達する。」
とあります。

ということは、やはり肉体は大事です。
しっかりケアしなければ、いけないのです。

愛を分かち合う道具として、肉体は必要です。
触れ合うこともそうですし、表現する道具として、パフォーマンスする道具として。
肉体を持っているからこそ、つなぎ合わせてもらえることがあります。

いよいよ来週から投薬が始まります。
先日までは、この投薬の件について
「身に覚えがないけれど、わたしは囚われている。」
という思いを、どこか心に持っていました。

ですが、「囚われている」というのは大きな間違いです。
うっかり被害者になっていました。

「身に覚えがないのに・・」というのも間違いです。
私がみてる世界なのですから。
ただ、あまりにも当たり前すぎて、
間違っていることすらわからないほどの誇大妄想的思考なだけなのです。

それを、今年は訂正していくことで何を見せてもらえるのかを楽しみに過ごしたいと思います。
そして、投薬は、愛し合う肉体として使うためのケア用品であるということも、
やっと心に入ってきました。
ケア用品だと思うと、ちょっといい感じです。

「存分に、愛し合うためにサポートするからね」というメッセージ。
私の新年の癒しです。

聖霊が「大丈夫だから」と、ずっと言ってくれていた、続きの言葉を聞くことができました。
この先、どれだけの方とどのように存分に愛し合っていくシーンが訪れるのか、
それも私の計り知れないことですが、とても楽しみです。

あまりにも当たり前すぎて、
間違っていることすらわからないほどの誇大妄想的思考なワタクシですが、
今年も、みな様と存分に愛し合い、分かち合わせてもらえることを楽しみにしています。
そして、ともに癒されましょう。
どうぞよろしくお願いいたします。

更新日: 2015-03-16 09:58:46