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赦しについて

赦しについて

2015年12月29日
『We can use temporary commitments
as stepping stones towards a full commitment to Peace of Mind.』

《私たちは、一時的なコミットメントを、
心の平和への完全なコミットメントへの飛石として使うことができます。》

【QUANTUM FORGIVENESS : Physics, Meet Jesus / デイヴィット・ホフマイスター著】


コースを学び始めて間もなくの頃
赦しというものが、いったいなんなのか・・
よくわかりませんでした。

自分が救われたいと、赦しを求める瞬間というのは
自分にとって辛かったり
悲しかったり、怖かったり、
理不尽さを感じるときだったり
誰かに自分をダメだと思われているときだったり
また、
誰かに対して、申し訳なくて後悔しているときだったり

そんな思いを抱えながら
自分の中で
助けを求める呟き・叫びのような
そのような祈りしかできていなかったように思います。

「助けてください。私は、この状況が嫌なのです」
そんな風に、自分の本当の目的も分からずに祈る瞬間を
何度も、何度も
「助けて」と・・

起こっていることに、
「助けてください」と
半信半疑でも聖霊へ意識を向けていく

そのように聖霊への意識・意欲を
思い出すことだけに専念していたある日

「どんなふうに、奇跡を見ることができるのか楽しみだね」

という言葉が、自分の内側に浮かんできて
自分が直面している状況が
ほんの少し、楽に思えるようになった記憶があります。

そして、ただただ、祈る。
訳も分からず「祈る」ではなく

「どんなふうに、奇跡を見られるのだろう」と
聖霊へ起こっている状況を委ねることを思い出しながら、
ほんの少しだけの余裕を感じながら

「私は、赦されていることがわかっていません」
「私は、何かを見逃しているようです。教えてください」
「私は、何を受け取らせていただけるのでしょうか?」
などなど。

混乱した思いから、聖霊への信頼と
自分自身の「赦されたい」という意欲の中で
祈りを続けることができるようになっていきました。

そして、最近感じているのは、
特に「自分がいない」と
すんなりと受け入れられてから

何か感情が揺れた時に
「赦されたい」と思うだけでなく

ただ心地よい、ただ平和な瞬間に気づくとき
「赦されている」
と立ち止まり感謝が起こることを感じています。

秋に開催した「関西セミナー」に向けて、
たたみかけるように様々な赦しのチャンスが訪れ

その前に参加した東京のセミナーで
「好きか嫌いかの前に自分はいるのか?よね。」
と香咲氏がおっしゃっていた言葉が
とても印象的で

ずっと、私の中の何かに引っかかっていました。

「私はいない」
ということを受け入れることができた時
本当に、全てが穏やかに感じられ
その瞬間を多く感じられるようになりました。

その瞬間が、多くなったのではなく
今まで気づかなかっただけなのですがね。


赦しの最終目的は、
神の愛を受けとり続けていたことを思い出し
「何一つ恐れることなど何もなかった」
と、平安であることを確信することと学んでいます。

その都度、思いが揺れたら
聖霊という本当の自分(内側にある本質)を思い出し
「そうじゃなかった」と
訂正を受け入れていくことを訓練しています。

その時、その時の自分のできることを
繰り返し続けていくこと。

祈る。助けを求めることを思い出す瞬間
私たちの「コミットメント」が実行される瞬間でもあります。

「コミットメント」とは、
「公約」「誓約」などの意味がありますが
みなさんもご存知のように
「強い意志」「堅い決断」と言えますね。


「助けてください。」と呼びかけているときは、
起こっていることが、なんとかなればいいな〜
くらいの想いですが、その奥にある
自分の本当の思いはわかっていませんでした。

「一時的なコミットメント」は
その時々の状況は違って見えていたり、
その瞬間だけの祈りだったり・・ですが、

その祈る思いの奥にある
「赦されていることをわかりたい」という真実への意欲が、
その向こう側につながるように
「心の平和への完全なコミットメントへの飛石」
として使われています。


どのような祈り方であれ、何一つ違いがなく、
求めていることは、何も変わっていなかった。
一途な願いであると感じられます。

そして、
最初は自分が何を望んでいるかさえ分かっていなかった。
ということも、はっきりとわかります。
聖霊という内側の本質への信頼は、全く違っています。

祈り続ける。
常に聖霊(本質の自分)への信頼をトレーニングすることは
最終的な自分の望みを明確にしてくれるトレーニングとなります。

祈り続けることで
癒しが待っている「壁」に見えているものが
薄い、透明感のあるベールだったと知ることができ

ふとした瞬間に気づくのです。
自分でそこに進んだのか
誰かによって招かれたのか
祈り続けていたからなのか

わからないうちに
自分が、恐れていない。という場所に立っているということを。。


「聖なる瞬間は、全体として見られた全ての関係と全ての状況の意味を、
鮮明かつ明確に表す輝かしい実例である。

信がその状況のすべての側面を受け入れており、
不信はそこから何も除外することを強要してはいない。

それは単にあなたがそれをありのままのものとしておいたからこそ現れた、
完璧な平安の状況である。」

(奇跡講座 T17-VIII-1:4~6)


赦され、癒された時に感じる変化は

何も変わっていないのに
何もかも変わっていくということ。

この体験は、とても面白いですね。

「新しい年の訪れと共に、聖なる瞬間を受け入れなさい。

そして、大いなる目覚めにおいて、
永きにわたり空席とされてきたあなたの持ち場につきなさい。

今年一年をすべて同じにすることで、これまでとは違った年としなさい。

そして、あなたの関わる関係のすべてを、
あなたのために神聖なものにしてもらいなさい。

これが私たちの意志である。」

(奇跡講座 T15-XI-10:10~13)


私たちは、何一つ思いを揺らす必要はない。
そのことをしっかりと選べる自由の中でコミットメントしたいと思います。



2015年
個人的には、たくさんのターニングポイントを経験しました。
そして、次の年もまた、新たな道が示されています。
自分の内側にあるガイドとともに
はっきりとしたコミットメントを持ち続けていたいと思います。

この1年に、お会いしたたくさんの皆様に感謝申し上げます。
新しい年も、新たな出会いと、信頼を深めていく友と
完璧な平安の中で過ごしていけますことに
期待して、楽しみたいと思います。


ありがとうございました。
今後とも、よろしくお願いいたします。

更新日: 2015-12-29