愛と対極にあるのは、恐れですが
恐れをも隠してしまうのは「無関心」ではないでしょうか。
無関心であるということは、愛にも、恐れにも関心がないということになりますから
自分自身の想いの揺れはもちろん、些細な感情の動きについて全く気がつかないでしょう。
先日、私の中には「破壊衝動」があるなぁと
その思考に意識を傾けていると最後に行き着いたのは
「怒ってでもいいから愛されたい。」
という、強烈な「愛されたい」という叫びでした。
一見、愛に見えないものでもいい
怒ってでもいいから愛して欲しい。という・・・・
「せ、せつなっ!!」(驚!)
それくらいに求めていて、どう考えたっておかしくて、狂っている
恐怖さえ感じる「愛を求める叫び」があることに気づきました。
私たちは、神からの罰を恐れ、神からの罰を免れようと
自分自身の世界に様々な投影をして、世界に責任を映すことで
「自分が正しい」という証明をしようと日々奮闘していますが
それは、ただただ「愛されたい」という思いだけで、神を恐れているとも言えますが
やはり「神に愛されたい」そして「愛したい」という愛を求める叫びでしかないですね。
破壊したい衝動的な願望には
他人に向けてのちょっとしたジャッジや不平不満、
自分自身への否定や孤独を選ぶ選択、
自分が作り出した世界を破壊したいという衝動が映し出す
戦争、テロ、災害などにつながっています。
自分自身や、他の人の身体に見ている病気もそうです。
そんなにまでして、何を破壊したいのでしょうか?
そんなにまでして「不完全」だということを証明したいなんて
「自分が正しい」という思考を証明しようとしながら
「自分が正しい」という思考自体を破壊したいのかもしれませんね。
これはもう・・くれぃじ〜です。
「破壊衝動」と、怖そうな言い方をしていますが、実は奇跡を求めている衝動___。
私たちが、愛でしかないという証明が欲しい「奇跡衝動」ではないでしょうか。
神は私たちの中に、私たちは神の中に、存在しています。
何も、変わらないまま愛の中で生きているのに
ただの勘違いなんだよね。とは、素直に認められないように
幾重にも巧妙に重ねられた誤魔化しがあって、
その誤魔化しの奥には「愛している」という感情が隠されていました。
私たちの思考が映し出す世界は、愛を求める世界ですが
必ず与えられている愛があります。
愛と対極にあるのは、恐れでした。
その恐れは、関心を持つことで
まっすぐに差し出される愛に取って代わるものになります。
「関心を持つ」というのは「お節介」とは違います。
むやみやたらと首を突っ込んだり
新たにジャッジするのではないし
誰かの問題を、肩代わりすることでもありません。
自分の思いと向き合うことではないでしょうかね。
自分自身の想いの揺れや、些細な感情の動きに関心を持つ。
自分自身に、自分の内側へと目線を向けることではないでしょうか。
そこにはどんな感情がるのでしょうか。どんな叫びがあるのでしょうか。
恐ろしくて、柱の影からチラッと覗きながら目撃したいですか?
恥ずかしくて、指で目を覆いながら中指と薬指の隙間から見ちゃう感じですか?
その叫びがたとえどんなに狂っていても大丈夫です。
「聖霊は、この狂った決断をした存在も、
愛が愛自身を愛しむように創造主が愛しむ存在であることを知っている。」
(奇跡講座 T22-VI-2:5)
何がなんでも愛されていますね。
私たちは、誰一人としてかけることができない完璧なスピリットですものね。
聖霊を信頼して、目的を一つにして明け渡すしかありませんよね。
もう、その分岐点まで来てしまったようですよ。
「わたし」という人格は、完璧にはなれないですが
「私たち」のスピリットは完璧です。
その完璧さは、想像をはるかに超えて完璧です。
どんな風に完璧かというのが、わからなくても
わからないことを受け入れていきたいですね。
この瞬間を信頼して、ほんとうの自分を受け入れていきませんか。
聖霊に道を譲ることを選ぶしかない道へと進んで来てしまったのですから。
全てを委ねていくレッスンを心がけていきませんか?
その完璧さを教えてくれるのは、聖霊であり、目的を共にしている兄弟姉妹です。
ほんとうの完璧な自分を受け入れることについても
兄弟姉妹がいないと何もわかりません。
自分の感情に関心を持ち、明け渡すことと
この経験がどんな奇跡につながっているのかを尋ねるレッスンを
より細やかに関わる心を持って、委ねていくと
兄弟姉妹から、世界から、まっすぐに差し出される愛を
どんなふうに見せてもらえるのでしょうか。
楽しみでございますね。
祝福と感謝を込めて。・。・*
更新日:
2018-02-01