ACIMのいう奇跡とはどういう事なのでしょうか。
それは、思考の訂正であり、自分が顕在的であれ潜在的にであれ思い込んでいた思い込みの世界(幻想の世界)を自分以外の叡智によって訂正してもらい、違った知覚(幻想の世界)で見せてもらうことです。
あっと驚くこと、よく例に挙げられる話として「死人が立ち上がる」なんてことを言われてますが・・こう言った物理的に不可能なことだと思われていることが起こることを「奇跡」というなら、私たちは奇跡を目撃することは人生の中であるかないか・・というか、おそらく体験できないと思います。
ですが、ACIMのいう「奇跡」というのは、日常の中で習慣的に見ることのできる「思考の訂正」「思い込みからの解放」という事。
という事がテキストからも学べます。
また、「奇跡を感じる瞬間」というのは、至福・幸福感を伴う事であったり、
ジワ〜っと温かいものが沁みてくるように感じられる時もありますし、
また、大きな声をあげて涙を流す時間を過ごす事もあります。
ですが、そこから引いたもっと俯瞰的な目線で見れば、その出来事自体は「在るべきものが在るように行われている」という変哲のない出来事。
後から思い返せば「ふつ〜〜うなことだった」と思われる事柄ではないでしょうか。
私たちが勝手に、物事を「思い込み」というものでややこしく複雑にしているので、奇跡(叡智によって訂正されること)により「在るべき形」になった時、それが一番しっくりと腑に落ちる当たり前のことなのです。
とはいえ、その水面下では、私たちの顕在的であれ、潜在的であれ「思い込んでいた勘違い」がグルリンっ!!とひっくり返る、あたかも何かものすごいものを発見したかのような驚きを感じているわけでーーー。
その感覚は、とても個人的な主観のようなものですが、
「奇跡とは、一つの関心ごとに心を寄せた者同士の中で起こる」
というACIMの教えのもとで分かち合われた時、大きな感動を目撃しあいますし、一緒に喜びあえるのです。
「何も動揺する(心配や不安・怒り・後ろめたさなどの感情など)何もなかった」
「思いを揺らす必要すらなかった」という知覚へと共に導かれます。
その瞬間に感じることは、私たちにとっての本来の自己である心に触れた瞬間で、全一なソレに戻る「還り道」の途中の大きな飛躍の証だと言えるのではないでしょうか。
そして、その事を目撃をしたのなら、その問題と思えることに対して、心を揺らすことはこれからも無くなります。
言い方を変えれば、そのことに心を揺らす自分に戻ることが許されないほどに安心を得られるものなのです。
(ですが、時折、影法師という形で出くわすこともありますが・・安心して恐れていることができます)
こういった瞬間を経て、その出来事は「安心・安全」な穏やかに知覚する世界になっていくのです。
と、こんなことを書いてますが、
「奇跡の原理」について、テキストでは50の段落に分けて記されています。
その詳細はしっかりテキストを読み込まないとわかりません。
そして、言葉だけでは表現できないスケールが確実にあるのです。
そういった意味では、「奇跡」は「在るべき形のふつ〜〜〜〜うである事」などではないのかもしれません。
それを知るー神の子として思い出すーのは、やはり実践していくしかないのでしょうね。
奇跡でない瞬間というのは、心が揺れる恐れを含んでいる幻想の世界です。
それは、見てはいけない世界ではなく、ただその叡智を受け入れる準備をしている時間でしかないのです。
私たちは、赦した分だけ受け取っていくことしかできませんから。
更新日:
2015-10-27