ACIMを学んでいくにつれて
私たちが何をもっと学びたいかという意欲を確認するタイミングというのがあります。
どのタイミングかというのも、どの選択をするのかも、それぞれのタイミングと、
その時、その人に合ったものを選ぶだけのことで、「絶対」ということはありません。
「これが本当だ!」「それ以外は間違いだから、触れないように」というふうに、
思い込むことも自らを自身の考えに囚われてしまい、
小さな枠の中に自分をはめ込んでしまうことになります。
ACIMと出会い、知りたいというきっかけは、お一人おひとり様々ではあると思いますが
その中でも多くの方は「この生活の中で生きている中で、苦しみや不安から解放されたい」
という気持ちから、ACIMに出会われた方は多いのではないでしょうか?
私自身、二進も三進も行かず絶望の中で、人伝いに知り、導かれるようにACIMの学びを始めました。
そして、その出会いから今年の秋で10年になります。
ACIMの教えというのは、
非二元論を首尾一貫した理論に基づいての学び。と言えますが、それは、とても難解です。
「非二元論」というものはスケールが大きいので、読んですぐにわかるという方は、
そもそもコースを学ぶ必要があるのだろうか?と、個人的には思います。
私自身、こう言った「非二元論」という理論を学ぶよりも、
まずヒーリングやセラピーなどを取り入れた解釈での学びをしてきました。
その当時、それしか知らなかったとも言えます。
その学び方というのは、ACIMを学ぶ上で「王道」でも「学ぶならそうした方がいい道筋」という事ではありませんが、当時の私にとってその方法が最も有効的に「赦し」を実践できたものでした。
きっと、いきなり「非二元論」という理論を学ぶには、準備が全くできていなかった。
ということでしょう。
今後、ACIMの学びは大きく広がっていくように感じておられる方も少なくないと思いますが、
ACIMの学びは、基本的には「自学自習」「独習」ですので、
まずは自身で読み進めるかどうかというところだと思います。
私自身は、意欲的に本格的にテキストを読むという段階には、
シェア会での分かち合いが大きく助けとなりました。
その後、講師をされている方に学び始めました。
そのなかでも、どの教師や講師の方から学ぶことが「正しく」学ぶことなのかという事に、
意識し過ぎたり、考えすぎないようにしていくことも心に留めておくことだと思います。
私たちは「分離はない」という学びをしています。
そして、様々なACIMの教え方があります。
様々な教師がいらっしゃいます。
だからと言って、統一しなければいけないわけでもなく
それは、それで自然な流れだと言われていますし、私もそうだと思います。
「いろいろあってこそ」なのではないでしょうか?
どのような学びの中にも、様々な教えを見ているのは、すべて私の罪悪感から
「神から離れたと思っている罪の意識」の現れでしかなく、
すべては「神の法則」でしかないので、何がどうであるという事は私にはわかりません。
ただ、わざわざ角度を変えて違いをみるというのは、
ありがたい事に、そこに私の赦しがあるという事でしかありません。
私たちは、移ろいゆく者であり、この世に生きているという夢を見て、
そこから真実を学び、還る道を探す夢を見ている、文字通り「迷える子羊」です。
その中で、その時期、自分にあった教えに出会い学んでいるのであり、
逆に「これだ」という学びに固執してしまい枠にはまってしまうという事は、
実は難しいのではないかと思います。
そういった意味でも、
奇跡に大きいも小さいもなく、赦しに大きいも小さいもない。
だけど、私たちは日々(時間はないけど)学びを深化させていきます。
そうやって、深化させていく中で、
その時、その時、自らが学びたいという意欲を感じる教えが
深まっていくのではないでしょうか。
そのタイミングは、それぞれに。
きっと、何度もあるのかもしれません。
そして「正しい」よりも「幸せ」で、その深みを学びたい。
A course in miracles の骨子を見失わず、柔軟でありたいと。
更新日:
2015-09-11