「権威についての議論は、実は、作者は誰かという問題である。あなたに権威の問題があるとき、その理由は常に、自分は自分の作者だと信じて、自分の妄想を他人に投影しているからである。その後あなたはその状況を、作者としてのあなたの立場を奪おうとする他者が、文字通りあなたと戦っている状況として知覚することになる。これが、神の力を横領したと信じているすべての者たちの根本的な誤りである。この信念は、彼らにとっては非常に恐ろしいものだが、少しも神を困らせることはない。しかし神は、その信念をぜひ取り消したいと望んでいる。その唯一の理由はご自身の子供たちを罰するためではなく、その誤りが彼らを不幸にすると知っているからである。神の被造物たちにはその真の作者名が明らかにされているが、あなたが自分の作者から分離することを選ぶとき、あなたは無名でいることを好む。あなたは自分の真の作者が誰なのかについて確信がないので、自分の創造における作者は不明だと信じる。これにより、あなたは自分が自分を創造したと信じることに意味があるように思える立場に置かれる。作者が誰かと言う論争は、あなたの心の中に多大な不確実性を残しているため、そもそもあなたが本当に存在しているのかどうかさえ、心が疑うほどである。」
(中央アート出版社「奇跡講座」T3−VI−8)
このテキスト箇所について、少し、今のわたしなりの言葉で書かせていただきますね。
自分が作っているドラマになんらかの「!?」を感じる瞬間ってありますよね。
その状況って、その相手がすごく「嫌な奴」として、敵と見えているけど、実はそれは兄弟の姿を借りて「赦しのチャンス」がやってきているわけですよね。
「!?」というのは、私たちの中に潜伏している「罪悪感」が反応しているものだと思います。
それは本当に「これでよし」とやってきた私たちにとっては恐ろしい出来事です。
なにやら急に自分がとても責められているように感じるし、
「なんでこんなことに!」という予想外の出来事に感じるかもしれない。
「どうしてわかってくれないの?」と孤独を感じる瞬間かもしれません。
どちらにしても自分自身に対して罪があると感じてしまう瞬間、
自分の中に「こんな思いを持っていたのだ」と知る瞬間でもあります。
「この信念は、彼らにとっては非常に恐ろしいものだが、少しも神を困らせることはない。しかし神は、その信念をぜひ取り消したいと望んでいる。その唯一の理由はご自身の子供たちを罰するためではなく、その誤りが彼らを不幸にすると知っているからである。」
神の愛はすごい!ですよね。
慈悲深いとも言えるかもしれませんが「情け」をかけるわけではなく、
「その誤りは私(たち)を不幸にするんだよ」という「愛」だけを与えてくださっているので、
やはりここは「慈悲」よりも「愛」が、わたしとしては使いたくなる言葉です。
そして、その恐ろしいと思える出来事に登場した「他者」という人。
「キリスト」かもしれない。ですよね。
それを怖がってしまうという状況とは、まさしく私(たち)は勘違いしている状況だと思うのです。
「神の被造物たちにはその真の作者名が明らかにされているが、あなたが自分の作者から分離することを選ぶとき、あなたは無名でいることを好む。作者が誰かと言う論争は、あなたの心の中に多大な不確実性を残しているため、そもそもあなたが本当に存在しているのかどうかさえ、心が疑うほどである。」
真実においてそれは「神(真理)」でしかありませんが、神(真理)から心が離れているとき、
「自分は神の子ではありません」としていたいわけですから、そのドラマは様々に矛盾し、分離した心であるうちは作者があやふやな方が都合がいいのだと思います。
「あやふや」なストーリーの辻褄を合わせようと思考は巡るうちに、どっぷりと自分の妄想の世界に入ってしまい、どうなってるのかわからなくなってしまう。
この矛盾のなかで、私(たち)は混乱し自分が誰か分からなくなったり、もう何が何だか分からなくなってしまうのですよね。
・・・辛い状況です。泣いたり、怒ったり、脅えたり。もぅ、ぐちゃぐちゃです。
こうなると幸せであることが私(たち)の本来の機能(はたらき)だと言われているのに、そうは思えません。
ほんっとに、よくご存知だし、それを罰する事なく、しかも「困らせることはない」と述べられているのですから、私(たち)にとってもこの状況は、本来、なにも困る必要はないのでしょうね。
。。。「妄想の投影」は、滑稽ですね。
まぁ、でも私(たち)って、そんなものなんですよね。
ここは笑って、忘れたいところです。
そして、この箇所を読み、エゴは煙りのように思考に入ってくる。。
ちゃんと手放さないと、これは繰り返してしまうかも。。。という思いが頭をよぎりました。
自分が赦すべき出来事というものが「何もなかったんだ」と幻想だったと解る。
「間違いだよ」と教えてくれて、気付けて、そこから解放された。
その瞬間のその後に、深く心に「あーそうそうこれで解放されたんだな」と感じる。
そこで、この思いを大事に持っていると、
今度はその「大事な思い」に囚われてしまうということを思い出します。
この場合、しっかり最後まで赦していなかったというパターンなのですが
赦され、自分はどうやら間違っていた。と思ったならば
やはり「その思い」はその場で(その瞬間で)手放さなくてはいけないですね。
赦されたときの感覚をその時の気持ちを言葉にして表現するのは素敵なことですが、
エゴ(私たちの思考)により、新たに私(たち)を捕らえてしまうことがあるようです。
(ありました。)
赦されたときの開放感は、とても嬉しいし、素晴らしい経験です。
だからこそ、その開放感を自分の中で整理し確かめたくなるし、自分なりの「言葉」を当てはめたくなります。
心で感じたことが整理されるということで、分かち合うこともできますから、素晴らしいことではあるけれど、言葉が生まれるということは、この時、私(たち)は思考を使っているということでもありますから、ここは注意したいところです。
エゴというのは、少しの心の隙間といいますか、ちょっとした瞬間に煙のように入り込んでくるように思うのです。
私たちは赦す機会に気づくまでその思いを「正しい」と思っています。
だけど赦された時「なにもなかったんだー」という開放感に言葉をつけるときに、また新しい「正しい」を持ってしまう時があります。
こうやって私(たち)の思考フィルターに通した時に、新しい大切な自分の資産を得たように感じてしまう思考(エゴ)に警戒したいと思います。
「赦し」という名目で、ただただ「正しい」ものを捜し歩く必要はありませんし
新しい「何か」を心に鎮座させる必要もありませんよね。
これは「神の力を横領したと信じているすべての者たちの根本的な誤りである。」と思います。
「なにもない」
だけど、そこにある「真実」は無くならないのですから
安心して手放していいし、それを死守する必要もない。
そうやって、次の瞬間には、手ぶらで移動する余裕を持っていたいと思います。
やはり「なにもする必要はない」というところに行き着いてしまいますね。
「少しも神を困らせることはない。」は、神の子も「困らない」ということです。
なんと言っても「妄想」ですから^^
「神の被造物たちにはそのを真の作者名が明らかにされている」
「この信念は、彼らにとっては非常に恐ろしいものだが、少しも神を困らせることはない。しかし神は、その信念をぜひ取り消したいと望んでいる。その唯一の理由はご自身の子供たちを罰するためではなく、その誤りが彼らを不幸にすると知っているからである。」
見守られている。。。という愛を感じる箇所です。
「困らせることはない」と言われているので、何度やってもいいのかもしれません。
ですが、あまり何度も繰り返したいとも思いませんね。
とは言え、これからも「うっかり」困ってしまうことはあるかもしれません。
その時は、作者が誰であるかを明らかにし、
リラックスして過ごしてみよう。という意欲を、思い出し、心に留めていたいと思います。
更新日:
2015-09-01